月刊カドカワ 92.10月 「ニューアルバム遅延経過報告」前半 |
岡村靖幸の沈黙の一年十ヶ月が過ぎようとしている。
しかし待ちに待ったその瞬間は、もう、そこまで来ているのだ。
というフリがついてるこの記事。
今からみれば、すごい外れてますね(笑)
「もう、そこまで来ているのだ」・・・って。
ハイ、その三年後ですよー「禁じられた生きがい」が出たのは。
二回に分けて「本人自身によるニューアルバム遅延経過報告」を載せたいと思います。
今日は前半です。今頃、武道館は盛り上がってるかい?と思いながら私は別の方法で靖幸を応援するのだ(←と負け惜しみ 笑)でも、こんなライブ写真を載せる所が未練タラタラ・・・
行かれた方、誰かレポってくれ~。。。
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レコーディングは遅れてますが、レコーディングに関して仮に非常に信頼できる人がいたとしても、その人にある部分を委ねるってことは、僕が自分自身に課した“試練”からは遠のくことになる。その意味で僕の場合はね、他者が介在しないので客観性がないし、商品性がもしかしたら低いのかもしれないけども、お客さんがアルバムを買ってくれたりライブに来てくれたりするのは、とても有難いと思ってる。
楽曲がしっかり納得いくものにならない、ちゃんとした宝石にまでなれてない時は保留にします。新曲が出ないということは、その間ずっと宝石にしようと、いろいろ実験を積み重ねているんです。でも昔からね、僕以上に音楽で実験した人はたくさんいた。
’60年代であれば当然ビートルズがやったし、他にもいろいろなことが試みられたでしょ?
だからビートルズのようなことじゃなくて、それ以上に実験的なことをやるっていうのは、聴く人にとっては非常に難解だったりするきらいがあるんですよ。
現代にあって、いままで聴いたこともない音楽を作るってことは、どうしても前衛的になる。
だからたとえばある音楽に対して「頑張ってるよねぇ」と言っても、ビートルズの焼き直しみたいなもののほうが実際はほとんどなんですね。
その上をいって実験的なものを作るとなると非常に苦労するし、ある種の修行みたいなことをやらないといけない。
外国の人までやらなくなってしまったことだから、ある意味じゃ世紀末的な現象なんだけど、でも、なぜか僕はやんなくちゃいけなかったんですね。前衛音楽というジャンルにもいかず、ポップ・ミュージックのなかでそれをやるのはすごい困難。
なんでみんなやらなくなってしまったかというと、やり甲斐もない世の中になったのかな?やっただけのことを分析もしてもらえないし批評もしてもらいない世の中だから、なおさらやらなくなったように思うんです。
僕は性格上やらずにはいられなかったんでしょうね。まあ、今後ずっとそういうことを何年もやり続けるかどうか?は解らないですけども。
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次回、後半に続きます。